おばさんになってハマる趣味と、“わかると・できるは違う”という話

ロイヤルアルバートのカップで楽しむ朝のコーヒー 心を満たす時間

おばさんになってハマる趣味、というものがあるらしい。

少し前にそんな言葉を目にして、試しに検索してみた。
筋トレ、ヨガ、瞑想、コーヒー、パン作り、読書、スパイスカレーなどの凝った料理、旅行、外国語習得
——そういった言葉が並んでいる。

なるほどと思いながら、少し苦笑いしてしまう。
ほとんど私のこと。

どれも共通しているのは、一人の時間を楽しめるもの、
ということかもしれない。

誰かと一緒でなくても、自分の時間を心から大切にできる年齢になってきた。
そういうことなのかな、と思う。

そしてどれも、「うまくなるまでの時間」を丁寧に楽しめるものでもある気がしてしまう。
もう、焦らなくていいと自分に言い聞かせる。
自分のペースでいい。
そう思えるのも、この年齢になったからかもしれない。


先日、ハンドドリップで淹れてもらったKEY COFFEEが、とても美味しかった。

同じコーヒー豆を買って、自分でも淹れてみた。

でも、どうしてもあの味が出せない。
豆は同じなのに、香りが違う。
口に含んだ時のまろやかさも違う。
何かが足りない気がして、何度か試みても、別物に思える。

昨日、偶然その方にお会いする機会があって、思い切ってコツを聞いてみた。

熱すぎないお湯で、口の細いケトルを使って、ゆっくりと注ぐ。
それだけのことだという。
そして、「あの日はたまたま美味しくできたのでしょう」と、謙遜されていた。

今朝、早速試してみた。

今までも「ゆっくり」注いでいるつもりだった。
でも、今回は自分が思っているよりも、もっと、もっとゆっくりと注いでみる。
コーヒーの粉が蒸らされている様子も自分が蒸らされているような気持ちで待つ。
香りが立ってきた。
お湯がコーヒーになっていく状態をしっかりと見つめながら注ぐ。
急かさない。
コーヒーの香りが鼻から肺まで深く染み込む。
細く、ゆっくり、次もまた、細く、ゆっくり注ぐ。

すると、いつもより、味の良さが出た。
嬉しかった。

それでも、あの感動にはまだ届かない。
また練習しよう、と思いながらも
——あの時の感動した気持ちを、これまでよりも大切なままにしておける気がした。

完璧に再現しようとするより、
あの感動をそっと持ち続けていること、
その方が大切だ、と。


パソコンのインストラクターをしていた頃は気づかなかったことだけど、
料理教室で講師をしていた時の違和感を思い出す。

料理は「状態」や「感覚」が伝わるかどうかで、
同じレシピでも、味も見た目も、保温力も保存のしやすさも、大きく変わってくる。

コンピューターの操作は、手順通りにやれば同じ結果が出る。
でも料理は違う。
火加減の「弱め」も、混ぜ方の「やさしく」も、人によってまったく異なる。
知識として知っているのと、実際にその状態になれているのは、全然別のことだ。

コーヒーで感じたあの感覚と同じだと思う。
感覚を掴むまで、自分好みを見つけるまでは、
やっぱり練習が必要で、その練習を重ねることでしか、たどり着けないものがある。

「わかった」と思っている状態と、「できている」状態は、別物。
そこに違いがあると知っていることが大切に思える。


ジャーナリングの書き方の本を読み直していて、ある発見があった。

夜にその日の感謝を書く、という習慣のこと。

私はずっと、「有難い」「満たされた」「良い方向になった」「安心した」
——そういった内容を書いてきた。
それが自分なりの感謝の形だと思っていた。

でも、その本には「じーん」と感じることが大切、と書いてある。

正直、驚いた。そっちだったのか、と。

例えるなら、
「今日は天気が良かったことに感謝します」
と、書き込むよりも、
「眩しい光の中で、空の青さと太陽の温かさを感じ、その温かさが
 私の肌を温めて、心からの幸福感が全身に染み渡っていく様子を感じているうちに
 いつの間にか感謝の心が生まれていた」
的な、上手に言語化できないのだけど、そういう自然にその心が生まれるくらいの状態に
浸ることが大切な感じ。

そこまでいかなくてもいいんじゃないか、と思われるかもしれない。
でも、コーヒーをゆっくり注ぐのと同じで、少しの感覚の違いが、結果を変えることはよくある。

「有難い」と頭で書くことと、胸の底から「じーん」と感じながら書くことは、きっと別の場所に届く。

変なこと言ってるように思われるかもしれない。

とはいえ、今朝のコーヒーが教えてくれたことは、高級さや評判の良さと言った豆のことではなく、状態で引き出すことができる結果の違いなのだけど、伝わるだろうか。

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